最近、胸の奥がざわつくという人が増えています。

何かが近づいている気がする。言葉にできない不安がある。だけど、それが何なのかははっきりしない...そんな声を、あちこちで耳にします。

「2025年の夏、世界を揺るがす何かが起こる」という言葉。たつき諒さんの『私が見た未来』という漫画に描かれた、「予言」。

信じている人もいれば、信じていない人もいます。でも、不思議と心のどこかが引っかかってしまう。それはきっと、「この時代そのものが、すでに揺れている」ことを私たちの身体が知っているからなのかもしれません。

この一年、何度も聞かれてきました。「かおりさんは、あの予言どう思う?」わたしの答えは、いつも同じです。

「信じる・信じない」の話ではなくて、「それを聞いた自分がどう反応したか」が、大事なんだと思う。

ある方は、旅行をやめたと話してくれました。夏に予定していた家族旅行。ずっと楽しみにしていたのに、どうしても心が動かなかったそうです。

「なにかが引っかかって、やめておこうって思ってしまった」と。その決断を、「怖れに負けた」と見ることもできるかもしれません。でも、わたしは思うのです。それは「怖れ」ではなく、「問い」だったのではないかと。

「これは本当に、いま動くべきなのか」

「わたしがほんとうに怖れているのは、何なのか」

問いは、心の奥からやってきます。そしてときに、自分ひとりのものではない「何か」を連れてきます。

たとえば、言えなかった「ごめんね」。伝えられなかった「ありがとう」。

ご先祖たちが生きた時代に、置き去りになった感情。それらが今、「不安」という名で浮かび上がってきているのかもしれません。

ご先祖セラピーを通して何度も見てきたのは、不安の奥に、祈りたかった気持ちが眠っているということ。

問いを持つことでしか、ほどけないものがあります。

「わたしは何を怖れている?」

「この怖れの奥には、誰の想いがある?」

問いを持てる人は、もう、未来にのまれていません。

自分の灯りで、足元を照らせる人。ざわつく時代にこそ、「問いかける」という

その静かな光を、忘れたくないと思うのです。

人はなぜ予言に惹かれるのか

予言という言葉には、どこか特別な響きがあります。未来を言い当てる、不思議な力を持ったメッセージ。

その一文に、私たちは期待し、怯え、また惹きつけられてしまいます。なぜ、予言はこれほどまでに人の心を揺さぶるのでしょうか。

たとえば、1999年のノストラダムス。2012年のマヤ暦。

終末論や大災害の噂は、時代が変わるたびに現れては消えていきました。そして今また、2025年7月の「何か」に、私たちは静かに動揺しています。

こうした予言に共通するのは、「破壊と再生」の構図です。

何かが終わる。そのあとに、新しい何かが始まる。この構造は、どこかで私たち自身の人生とも重なります。

仕事の終わり、関係の終わり、住む場所の変化。予言は、「大きな変化が訪れるかもしれない」という言葉を借りて、実は「自分の人生のどこかに、もう終わりかけているものがある」と気づかせてくれているのかもしれません。

私たちは、未来を知りたいのではなく、未来を「整えたい」と思っているのだと思います。

知ることで安心したい。備えることで回避したい。失う痛みを、前もって軽くしておきたい。

そんな願いが、予言にすがる気持ちを生み出していくのです。

けれど、本当に求めているのは「予言そのもの」ではなく、「安心できる確信」ではないでしょうか。

それが手に入らないとき、人は「もっと怖い未来」を想像してしまいます。

何も起きていないのに、不安になる。誰も何も言っていないのに、構えてしまう。それは、未来ではなく「心の中にある空白」に反応している状態です。

ここで、ご先祖セラピーの視点を少し重ねてみたいと思います。

私たちは、無意識のうちに「何代も前の体験や感情の記憶」を引き継いでいることがあります。

たとえば、大地震の記憶、戦争で家族を失った痛み、逃げることができなかった罪悪感。それらが、脈々と受け継がれて、理由もなく「何かが起きそうで怖い」という感覚につながっている場合があるのです。

予言に対する反応が強いとき、それは「ご先祖が生きた時代の揺れ」を感じ取っているのかもしれません。

予言の内容そのものではなく、そこに自分が「どんな気持ちで反応しているか」を見ていくこと。

それが、ご先祖セラピーでいうところの「問いを持つ」ということです。

「わたしはなにを怖れているのか。」

「その怖れは、いつからあるのか。」

「わたしだけのものなのか、それとも...。」

未来を制御したくなるとき、その奥には必ず「過去への無力感」が眠っています。

予言というメッセージをきっかけにして、その無力感と向き合い、自分自身の「選び直し」につなげていくこと。

それは、不安を消すことではなく、不安の奥にある記憶に「寄り添いなおすこと」なのだと思います。

予言のせいで揺れるのではなく、揺れた心が、予言という形を借りて「語りかけてほしいこと」を運んできてくれているのかもしれません。

「未来を怖れているのではない、過去が語りかけているだけ」

「なぜか、怖いんです。理由はわからないけれど、どうしても、その時期に動く気になれなくて……」

そう話してくれた方がいました。

2025年の夏を前にして、何かが引っかかっている。確かな根拠もないまま、心のどこかがざわついている。それは、決して少数の感覚ではありません。

表面的には「たまたま」に見えるその不安の奥に、ご先祖セラピーでは、あるひとつの可能性を見ます。

それは、「自分のものではない怖れ」が、心の深い層で息をしているということです。

たとえば、祖父母の世代で戦争を体験した方。

あるいは、震災、空襲、逃げ場のない混乱、「誰かを守れなかった記憶」「助けを呼べなかった罪悪感」

それらが直接語られなかったとしても、その感情の波は、家族という場に沈殿していきます。

語られなかったからこそ、未処理のまま、世代を越えて流れていくのです。

そしてあるとき、孫やひ孫の世代の「なんとなく怖い」「根拠はないけどやめておきたい」という感覚となって、浮かび上がってきます。

それがまさに「記憶の継承」であり、ご先祖セラピーが扱う「心のレイヤー」です。

不安とは、とても個人的なものに見えて、実はもっと大きな流れの中で生まれている場合があります。

たとえば、かつての戦のさなか、逃げ遅れてしまった人がいたとします。

自分だけが助かってしまったことを悔やんだ誰かがいたとします。

その「動けなかった記憶」は、何世代も経たあとで、「動かない」という選択になって現れることがあるのです。

旅行をやめる。動かないことを選ぶ。その判断が悪いわけではありません。でも、そこに「意識されていない記憶の影響」があるとしたら...

私たちは、自分の人生を生きているつもりで、誰かの過去を、代わりに生きていることになるのかもしれません。

もちろん、未来を怖がる気持ちは自然なことです。危険を避けたい、防衛したい、命を守りたい。その反応は、私たちの大切な本能です。

でももし、その怖れが「自分の感覚なのかどうか」すらわからなくなってしまったとしたら...。

それは、心の奥で何かが「未完了」のまま残っているサインかもしれません。

ご先祖セラピーでは、こうした感覚を「語りたかった祈りの断片」として捉えます。

「わたしが怖れているこの感じは、誰のものだろう?」

「もしかしたら、何世代も前から伝わってきた記憶なのかもしれない」

そう問いかけてみることは、自分と家族の歴史をつなぐ、大きな一歩になります。

問いかけることで、わたしたちは初めて「これは自分の人生なのだ」と実感できるようになります。

たとえ、怖れが消えなかったとしても、「これはわたしが選んでいる怖れなのだ」と気づくだけで、その関係性はまったく変わります。

誰かの記憶をただ生きるのではなく、その記憶に気づき、光を当て、選び直すことができる。

それこそが、ご先祖セラピーの核心であり、未来を「自分の足で進む」ための、静かな力になるのです。

「問いを持つということ」未来にのまれない在り方

「どうすれば不安が消えますか?」そう聞かれることがよくあります。

けれど、不安という感情は、「消す」ものではなく、「聴く」ものなのかもしれません。

ご先祖セラピーでは、不安の奥には必ず「語られなかった祈り」があると考えます。

たとえば、言いたかったのに言えなかった「ありがとう」。

守りたかったのに守れなかった「あの人」への想い。

もう戻れない過去に、心のどこかが留まっていることがあります。

その声は、感情として浮かび上がることもあれば、ふとした予感や身体のざわつきとして現れることもあります。

そんなとき、私たちにできるのは、「問いを持つこと」です。

問いは、すぐに答えが出なくてもかまいません。むしろ、答えようとしすぎないことが大切です。

問いがあることで、心が奥の方に向かって静かに潜っていく。

そこで初めて、ほんとうに感じていたことや、語られなかった記憶の声に、出会うことができます。

たとえば、こんな問いがあります。

「わたしは、いま何を怖れているのだろう?」

「この怖れは、いつからわたしの中にあったのだろう?」

「これは、わたし自身の感覚なのだろうか?」

問いは、未来をコントロールするための手段ではなく、「今、ここ」にある命の揺れを感じるための扉です。

答えを出すためではなく、自分自身との対話を深めるための糸口。

そして、その問いはときに、ご先祖がかつて抱えていた問いと重なることがあります。

「助けられなかった自分を、許してもいいのか」

「生き延びた私に、意味はあったのか」

「誰かに背中を押してもらいたかった」

そんな想いが、今を生きる私たちの中で、かすかな波紋のように揺れているのかもしれません。

つまり、問いを持つとは、自分の命の歴史に、敬意をもって向き合うことです。

そしてその過程で、「わたしはわたしとして生きていい」という感覚がゆっくりと育っていきます。

問いを持つことは、動けない自分を責めることではありません。

むしろ、問いがあるからこそ、未来にのまれず、自分の足で進んでいくことができるのです。

不安を感じるときこそ、静かな問いを持ってみてください。

その問いが、あなたを「怖れの渦」から救い出すのではなく、「今、ここ」という確かな場所に連れ戻してくれるはずです。

そして、その場所に立てたとき、ようやく気づくのです。

「未来は、まだ書き換えられる」ということに。

「止まって見える時間にも、動いているものがある」

何も起きていないように見える時間。予定をキャンセルし、ただ静かに過ぎていく日々。不安のせいで「前に進めなかった」と感じる瞬間。

けれど、そうした時間の中でこそ、私たちの内側では確かに何かが動いています。

たとえば、人と会わずにいた日々の中で、ふと浮かんできたひとつの後悔。

静かな夜に、なぜか涙がこぼれた記憶。

それらは、意識の奥深くで、ずっと動かないふりをしていた「何か」が、ようやく揺れはじめたサインなのかもしれません。

人生には、「見えない再構築の時間」があります。まるで冬の大地のように、外からは何も変わっていないように見えて、土の中では水が流れ、根が張り、次の季節の準備が始まっているような時間。

止まってしまった、と思うときほど、私たちは深く耕されているのです。

ご先祖セラピーでは、「何もしない時間」「動けなかった時期」さえも、「祈りの余白」として大切に扱います。

それは、過去と未来の間で、静かに選び直すための時間。

焦らなくていい。決めなくてもいい。その時間を通して、「わたし」という存在が、本当に大切にしたいものと再び出会うことができるからです。

また、ご先祖たちの人生にも、「何もできなかった時間」がたくさんあったはずです。

戦争で、日常を失った日々。待ち人が帰らなかった夜。

言いたい言葉をのみこんで、ただ耐えた沈黙。

でも、その静けさの中に、祈りがあったのではないでしょうか。

「どうか無事でいてほしい」

「どうか、次の世代はこの痛みを繰り返さないように」

私たちは、その祈りの続きを、今この手で生きているのかもしれません。

だからこそ、止まって見える時間にも、確かに流れているものがある。

問いを持って立ち止まることは、決して後退ではありません。

それは、命の奥深くに沈んでいた想いに、もう一度耳を澄ませる時間です。

そして、そうした時間を過ごしたあとに見える景色は、それまでとはまったく違っていることがあります。

たとえば、同じ道を歩いているはずなのに、季節の色や、空の音が違って感じられるような変化。

心の深いところで、何かがほどけ、何かが芽生えている。

その変化は、誰かに評価されるものではなく、SNSで発信されるわけでもないかもしれません。

けれど、そうした小さな変化こそが、未来を変えていく力になるのです。

「動けなかった日々」にこそ、先祖の祈りが静かに流れ込んでいた。そんなふうに感じることができたなら、もう怖れにのまれる必要はありません。

わたしは、ちゃんと生きている。見えない方角へも、自分の足で進んでいる。そう信じられる準備が、少しずつ整っているのですから。

見えない方角へ、自分の足で進む

静かな問いを抱えながら過ごした時間は、やがて内側で芽吹く小さな確信へと変わります。

「怖れは消えないかもしれない。けれど、わたしは歩くことを選べる」その感覚が身体に根を張りはじめると、不思議と視界がひらけてきます。

キャンセルした旅程のページをめくり、空白になった日付にそっと予定を書き足す人がいます。

遠くへ行くのではなく、まずは近くの町へ。あるいは、ずっと後回しにしていた森の小径へ。

「動けなかった日々」に見つけた問いをポケットに入れながら、自分だけの新しい地図を描き直していくのです。

ご先祖の人生は、私たちの背後で絶えず風のように吹いています。動けなかった夜にも、凍えそうな朝にも、彼らはきっと静かに祈っていたはずです。

「この痛みが、次の世代で癒えますように」

わたしたちが一歩踏み出すとき、その祈りが背中をそっと押してくれる瞬間があります。

気づかないほど微かな力です。けれど、それは確かに私たちとともにあるのです。

怖れが完全に消える日を待っていたら、未来はいつまでも「来ないまま」。だからこそ、不安を完全に消すのではなく、「共に連れて行く」選択肢を持つことが大切になります。

不安は、過去から受け取ったランタンのようなもの。

手に持ちながら足元を照らし、ほんの数歩先を確かめる光になります。

「ほんとうに怖れているのは何ですか?」

「 その怖れは、誰の声でしょうか?」

「今、わたしが守りたいものは何でしょう?」

この三つの問いを胸に置くだけで、外側の予言より自分の内側のひらめきに耳を澄ませやすくなります。

問いは、ぶれそうになる心をゆっくりと中心へ引き戻す磁力を持っています。コンパスの針のように、静かに、正直に。

遠い未来を一気に塗り替える必要はありません。

・今夜はニュースを閉じて早く眠る

・久しぶりに友人へ手紙を書く

・行きたかった展覧会へ足を運ぶ

毎日のそんな小さな決断を、自分で祝福してみてください。

「わたしは、わたしの足で進んでいる」その肯定感が積み重なるごとに、「見えない方角」はすこしずつ輪郭を帯び、歩幅は自然と広がっていくから。

未来が怖い夜に、灯りをともすように

夜更け、窓の外で風が鳴ると、ふと胸の奥がざわつくことがあります。

「もし、明日なにかが起きたら...」そんな想像は、誰の心にも忍び込みます。

でも思い出してください。怖れの下には、まだ語られていない祈りが眠っている。問いを抱え、立ち止まり、自分とご先祖の物語をもう一度撫でるように見つめたあなたは、すでに旅の途中にいます。

予言が示す未来は、一つの可能性にすぎません。

あなたが歩くたび、可能性は無数に分岐し、物語は書き換えられていきます。

怖れも、不安も、問いも、すべてを携えて進むその姿こそが、ご先祖たちが願い続けた「いのちの連なり」の証なのです。

「私は見えない方角へも、自分の足で進んでいけます。足音は小さくても、その歩みは確かに未来を開いていきます。」

窓の外の風がやむころ、あなたの内側では、静かな灯りがまた一つともるでしょう。

それは「怖れを抱えたままでも、生きていい」という合図。

そして、小さな灯りの向こうにはまだ誰も知らない、やわらかな朝が待っています。

どうか、その道へ。あなた自身の歩幅で。

編集後記

「予言が怖くて、旅行をやめたんです」この一言が、ずっと胸のどこかに引っかかっていました。

それは単なる行動の話ではなく、「私たちは今、どこで立ち止まり、何を見つめているのか」という問いだったように思います。

未来は、誰にもわかりません。

でも、わからないからこそ、私たちは怖れたり、願ったり、祈ったりするのだと思います。

不安に揺れるとき、「それは、わたしの感情だろうか」「それとも、誰かの記憶を生きているのだろうか」─

そんなふうに静かに問いかけてみるだけで、

見えなかったものがふっと輪郭を帯びはじめます。

ご先祖セラピーは、何かを断ち切るためのものではありません。

むしろ、いまここにある命の連なりを、もう一度感じ直すためのものです。

誰かの願いが続いてきたからこそ、いまの自分がここにいる。

そう思えたとき、予言に揺れる夜もまた、自分の歩みを選びなおす「ひとつの通過点」になるのかもしれません。

このお手紙があなたの中の静かな問いに、そっと寄り添えていますように。

また、つぎのお手紙でお会いしましょう。

あなたとあなたの大切な人の人生が愛で満ち溢れるものであり続けますようにとの願いを込めてDESTINYからのお手紙をお届けさせていただいています。

「このテーマについて知りたい」
「こんなサービスがあったらいいな」
「今、こんなことで悩んでいます」

あなたの声をぜひ聴かせていただけませんか?

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