愛って、なんだろう

子どもは、かわいい。無条件に愛おしい。その笑顔だけで、心が救われる。

でも、パートナーにはなぜだか、感情が揺さぶられる。

ちょっとした言葉に傷ついたり、感謝がうまく伝えられなかったり、わかってほしくてぶつかってしまったり。

「どうしてこんなに、うまくいかないんだろう」

「私のせい? あの人のせい?」

そんな問いが、夜の静けさの中で浮かんでは、消えていく。

「家族」としてつながっているはずなのに、どこかで孤独を感じてしまう関係。

それでも一緒にいることを選んでいる関係。

そんな時、ふと頭をよぎる。

「愛って、なんだろう?」

与えること?支えること?耐えること?

それとも、ただ一緒に「在る」こと?

私たちは、「愛し方」を誰から習ってきたのでしょう。

親同士の関係に、安心はあった?

小さなころ、自分の感情は受け止められていた?

それとも「わがまま言っちゃダメ」と、飲み込んできた?

今の関係に生まれる「もどかしさ」や「距離感」は、実は、過去からずっと続く「愛の記憶の構造」かもしれません。

それは、自分の中に眠っていた記憶だけじゃない。あの人と出会う前に経験した「過去の恋」や、うまく終われなかった「別れ」も含まれているはず。

本当は言いたかったけど、伝えられなかった想い。

「もっとこうしてくれたら...」と願いながらも、黙って引いた自分。

それらの記憶が、「今のパートナー」との関係に、影のように重なってくることがある。

そしてさらに深く見ていくと、ご先祖のなかにも、叶わなかった恋や、語られなかった愛の記憶がある。

愛し合っていたのに引き裂かれた二人。

家の事情で別の人と結ばれた人生。

心を閉ざしたまま、最期まで語られなかった想い。

そうした「愛の未完了」は、家系の無意識のレイヤーに、静かに蓄積されていく。

そしてそれが、ある日ふと、自分の人生に投影されてくるのです。

だから、パートナーとの関係に揺れるとき、それは「うまくいかない関係」ではなく、「本当の愛」とは何かを、自分に問いなおすチャンスかもしれない。

自分の中の傷を見つめること。

過去の恋を、やさしく手放していくこと。

ご先祖の未完了の想いを、そっと癒していくこと。

そうやって私たちは、愛を「取り戻す」のではなく、「ほどいて、静かに感じ直す」のかもしれません。

このお手紙では、そんな「愛の記憶の構造」に、ご先祖セラピーの視点から光をあてていきます。

「どうして、こんなに愛することが苦しいんだろう」

そんな問いの奥にある、本当のやさしさに出会うために。

なぜか、感謝が言えない関係

「ありがとう」が遠くなる日、心の奥で起きていること

「ありがとう」って、もっと素直に言えたらよかった。

そう思ったのに、口を開くと、なぜか違う言葉になってしまう。

本当は感謝しているのに。ちゃんと嬉しかったのに。

なのに、そのときに限って、無言になったり、皮肉みたいな言い方をしてしまったりする。

相手が悪いわけじゃない。むしろ、やさしいときほど、どうしてか心の中がざわついてしまう。

それは、「愛してくれてありがとう」が言えないのではなく、「愛されていい」と思えていないだけなのかもしれない。

私たちは、大人になったら自然に「感謝できる人」になると思っていた。

でも現実には、パートナーとの関係が深まるほどに、なぜか「ありがとう」が遠のいていくことがある。

それは、なぜだろう?

もしかすると、そこには、幼い頃から身につけた「愛の受け取り方」が関係しているのかもしれない。

あなたの育った家では、「ありがとう」「嬉しいよ」「助かった」そんな言葉が交わされていましたか?

それとも、感謝よりも、我慢や察することが求められる空気でしたか?

親が無口だった。あるいは、感情を表すことが「恥ずかしい」とされていた。

そういう環境では、感謝の言葉=照れや抵抗のあるものとして刷り込まれていきます。

そして何より、もしあなたが、「親に喜ばれようと頑張ってきた子ども」だったなら、感謝よりも先に「もっと認めてほしい」という想いが心にたまっているかもしれません。

親の機嫌をうかがいながら育った人は、「ありがとう」を言うことが「負け」や「服従」に感じられたり、どこかで「甘えたら嫌われる」と思っていたりする。

つまり「ありがとう」が言えないのは、あなたが冷たいからでも、愛が足りないからでもなくて、ただ、安心の経験が足りなかっただけなのです。

ご先祖セラピーの視点で見れば、こうした「感情の出し方のパターン」も、代々受け継がれている記憶のひとつです。

・夫婦間に会話のない家系

・子どもへの愛情表現が少なかった家系

・感情より「責任」や「義務」が優先されていた家系

そんな家系の流れの中で、私たちは「感情を表すこと=危うさ」と感じてしまう。

つまり、「ありがとうが言えない」のではなく、「ありがとうを言える空気を知らないまま」育ってきたのです。

パートナーとの関係において、一番初めに見失われるのは、「わかってほしい」と思う自分の声。

そして二番目に消えていくのが、「ありがとう」と伝えるやさしさ。

感謝は、最初から溢れるものではなくて、

「安心」→「許し」→「受け取り」のプロセスの先にようやく芽生える、小さなあたたかさ。

だからこそ、うまく言えない自分を責めるのではなく、「どうして私は、今ここで言えなかったんだろう?」とやさしく問いかけてみてください。

その問いの奥に、あなたの家系が封じてきた「愛の声」が隠れているかもしれません。

過去の恋愛の影

「忘れたはずの気持ち」があふれるとき。

「もう終わった恋だから」そう思っていたのに、パートナーと話していて、ふと浮かんでくるあの人の顔。

なぜか似たような言葉に傷つき、なぜか同じような距離感を繰り返してしまう。

それは、心が未消化のまま抱えている「過去の恋の記憶」かもしれません。

恋が終わっても、想いはすぐに消えてくれない。

むしろ、「終わり方」が中途半端だったほど、記憶の中ではいつまでも静かに生き続けます。

たとえば、ちゃんと話し合えずに離れた手、諦めるように手放した後ろ姿。

愛していたのに、傷つけ合って別れた。

そうした未完了の恋は、今の関係に「影」として重なってくることがあるのです。

ある女性は言いました。

「今のパートナーといると、もう8年も前に別れた元彼の顔が浮かんでしまうんです。

本当に好きだった。でも、怖くて逃げたんです。

今、彼がしてくれる優しさの中に、あのとき私が拒んだ愛を思い出してしまう。

だからなのか、素直に甘えられなくて...何度も同じ逃げ方を繰り返してしまうんです」

このように、過去の恋に置いてきた感情は、無意識のうちに今の関係に流れ込みます。

ここで大切なのは、「その恋が正しかったかどうか」ではありません。

むしろ、その恋の中で未処理のまま心に残っていた「自分自身」がいるということ。

もっと愛されたかった、もっと愛したかった。

わかってもらいたかった、素直になれなかった。

そうした想いが、そのまま今の関係性に映し出されて、「なんで私ばっかり我慢してるの?」「どうして、わかってくれないの?」という「感情のずれ」として表面化してくるのです。

そして、ご先祖セラピーの視点から見ると、それは「あなただけの物語ではない」可能性もあります。

家系のなかには、必ずひとりやふたり、「叶わない恋」をした人がいます。

時代の壁、家の事情、親の反対、戦争や死別など、あらゆるかたちで「心を通わせたまま、別れざるを得なかった関係」があったはずです。

その「未完了の愛」の記憶は、語られないまま、でも確かに家系のエネルギーの中に留まり、次の世代に「感情の形」として継承されることがあります。

あなたが「もう終わった」と思っている恋の痛みが、実はご先祖の「叶わなかった愛の祈り」と共鳴している。そんなことが、あるのです。

ここで一つ、ある女性のお話をさせてください。

「逃げた恋と、今の結婚」

ある女性は、20代の頃に深く愛した人がいました。

とても優しく、真剣に未来を考えてくれていたのに、「私なんかが一緒にいたら、彼をダメにする」と思って別れを告げてしまうのです。

それから数年後、別の男性と結婚。

家族も喜び、安定した関係だったけれど、ふとしたときに思い出すのは、あのときの「彼の笑顔」

21日間氏神様に通う時間の中で「あの恋は、私が愛されることを拒んだ記憶だった」と気付いそう。

それから彼女は、今の夫に対して、「受け取る」ことが少しずつできるようになったと。

未完了の恋を終わらせることは、今のパートナーとの関係を「始め直す」ことでもあるのです。

私たちは、「前に進むために忘れなきゃ」と思いがちです。

でも本当は、忘れるのではなく、「感じきって、癒して、いつの間にか忘れている」こと。

それが、愛の記憶をやさしく終わらせるということなのです。

ご先祖もまた、きっとこう願っているはずです。

「もう、あなたには同じ想いをさせたくない」

「あなたには、愛しきれる関係を生きてほしい」

その願いが、あなたの中の「もう一度愛したい」という気持ちと重なったとき、

過去の恋は、「痛み」ではなく「祈り」に変わっていきます。

彼の問題に巻き込まれるとき、私の何が揺れているのか

パートナーが苦しんでいるとき。

体調を崩している、仕事がうまくいかない、

何かに依存している、自暴自棄になっている。

「それは彼の問題」そう割り切れたら、どれだけ楽だったろう。

でも実際は、気づけば自分の方が心をすり減らしている。

眠れなくなったり、感情が不安定になったり、「何が起きてるのは私じゃないのに」と思いながら、どこかで「責任のようなもの」を感じてしまっている。

それはきっと、あなたが優しすぎるからだけではありません。

そこには、もっと「深い構造」があるのです。

ご先祖セラピーの視点から見たとき、パートナーとの関係はただの「恋愛」や「契約」ではありません。

ときに、家系の記憶を再演するための場でもあり、ときに、癒されなかった物語を背負う関係性でもあります。

あなたが、「なぜか彼の問題に巻き込まれてしまう」と感じるとき、そこにはこんな可能性が眠っています。

・彼の抱える問題が、あなたの家系の痛みを象徴している

→たとえば、あなたの祖父や父が仕事中毒や無気力だった場合、あなたのパートナーが「動けなくなる」姿に、それが再現されている可能性があります。

・あなたが、「代わりに癒そう」としてしまっている

→家系のなかで「助けられなかった人」がいた場合、その人への想いが、「目の前の彼を救いたい」という形で現れることがあります。

つまり彼の問題は、「あなたの課題」ではないけれど、あなたの「記憶のどこか」とはつながっているのです。

ある女性のケースをご紹介します。

病を繰り返す夫と、支え続ける妻

彼女の夫は、結婚してすぐに体調を崩してしまいました。

社会復帰しても、何度も何度も病を繰り返すので、最初は「運が悪かった」と家族の誰しもが思っていた様子。けれど3年、5年、10年と経つうちに、どこかで「これは私のせいなのではないか」と感じ始めてしまったそう。
ご先祖セラピーを受ける中で、

「私の家系には、心を病んでいたけれど語られなかった叔父がいた。

そして、母はそんな叔父を家族の恥として扱っていて...。

私は、その無視された痛みを、彼の姿を通して見ていたのかもしれない」

彼女は自分自身で気づいてから、夫を「救うべき人」ではなく、「自分の中の痛みを映してくれていた存在」として見直すようになったそうです。

彼を「変えよう」とすることをやめたとき、不思議と関係に静けさが戻ってきたとのことでした。

「なぜ、あの人ばかりが苦しむのか」

「なぜ、私はそれを黙って見ていられないのか」

その答えは、目に見える日常のやりとりの中では見つからないかもしれません。

でも、魂の記憶、家系の構造、ご先祖の想い。

そういった「見えない領域」に目を向けると、ふたりの関係を通してにれているものが、少しずつ輪郭を持ち始めます。

これをご先祖セラピー方程式に表してみると

関係の痛み=パートナーの役割 × 家系の記憶 ÷ 気づきの深度

ここで大切なのは、「あなたが彼を救うべき」という話ではありません。

彼の問題を通して「自分の奥に眠っていたもの」に気づくこと。それが、ご先祖の記憶をほどく第一歩になります。

誰かを助けることでしか「自分の価値」を感じられなかったなら、そこには、癒しを求める過去の自分や、愛を封じた先祖の姿があるかもしれない。

だからこそ、彼を変える前に、自分の中で問い直すのです。

「私は、なぜここまで、彼のことを引き受けてしまうのだろう?」

その問いこそが、「愛の構造」をほどく鍵になるのです。

「役割」の仮面を脱いだとき、本当の関係が始まる

家系の中で繰り返されてきた「夫婦のかたち」

「夫として」「妻として」ちゃんとやらなきゃ。

子どもに不安を与えないように、両親に恥ずかしくないように、周囲に心配されないように...。

そんなふうに、気づけば「自分自身」より「役割」を演じてしまう。

でもふと、静かな時間に問いかけたくなる。

「私は、何のために、この人と一緒にいるんだろう?」

ご先祖セラピーでは、夫婦関係に流れる「空気」や「距離感」もまた、家系の記憶の継承であると捉えます。

たとえば、

・祖父母が我慢することが愛だった家

・両親が形だけの夫婦を保っていた家

・父が家庭内にいない家

そういった「夫婦のかたち」が、無意識のうちに「普通」「当たり前」として刷り込まれていきます。

だからこそ、自分の結婚生活に違和感があっても、どこかで「こんなものだろう」と受け入れてしまう。

でも、それは本当に「あなた自身」が選んだ愛の形でしょうか?

ある夫婦のケースを紹介します。

「家族の形」を守ろうとした夫婦が見つけた愛のカタチ

結婚して15年。二人の子どもに恵まれ、表面上は安定していた夫婦。

でも、妻はいつも「孤独」を感じていたのだそう。

夫は家庭に関心がないわけではないが、「俺はちゃんと稼いでいる、それで十分だろ」という空気をまとっていて、妻が話しかけると「またか」「面倒くさい」と言われてしまう。

ある日、妻が泣きながら「私たち、本当はもう終わってるのかな」と夫に伝えました。

すると、そのことがきっかけで、二人は数日間、あえて「夫・妻」という立場を降りて、「ただの一人のひと」として会話をする時間を作ることに。

そこで初めて、「俺の父親は、母と一言もしゃべらなかったんだ。だから何をどう話していいのか、わからなかった」と教えてくれた夫のその言葉に、妻は泣きながら「あなたも、ずっと寂しかったんだね」と寄り添えたと言います。

二人はその日から、もう一度「人と人」としての関係を育て直すことを決めたそうです。

「夫だからこうあるべき」「妻だからこうして当然」その仮面を脱いだとき、そこに残るのは、不器用で、傷つきやすくて、でも、ちゃんと愛したいと願っている「本当の自分」

私たちは、誰かに愛される方法を学ぶよりも、誰かを安心して愛せる「空気」を、まず自分の中に育てていくことが大切です。

それはつまり、家系の中で「こうあるべき」とされてきた関係性の型を、自分の手で、静かにほどいていく作業でもあります。

ご先祖セラピー方程式で表すとすれば

愛の再定義=本音の共有 ÷ 家系の期待

家系にある「正しい夫婦」「我慢強い妻」「責任を果たす夫」そんな「理想像」に追いつこうとして疲れ果てる前に、いちど立ち止まって問い直してみてください。

「私は、何を期待通りに生きようとしているんだろう?」

「その期待は、本当に私自身が望んだもの?」

本音を語ることは、こわい。でも、仮面をつけ続けるほうが、もっと苦しい。

だからこそ、「わかってほしい」という本音が出てきたときは、関係が新しく生まれ変わるタイミングなのかもしれません。

夫婦である前に、まず「ひとりの人」として、相手の前に立ち直るということ。

それは、家系に流れていた「我慢の関係」から、「つながりの関係」への静かな転換でもあるのです。

それでも、なぜ一緒にいるのか

「もう好きじゃないのかもしれない。」

会話も減ったし、ときどき、真っすぐに顔を見ると、ため息が出る。

この人といる未来が想像できない… そう思う瞬間が、何度もあった。

それでもなぜか、別れようとは思わなかった。

「ここにいること」が、なぜか「義務」でも「執着」でもなく、「決意」にも似たように、揺るがない思いを感じた時。

それこそが、すでに愛ではないのでしょうか?

ご先祖セラピーの中では、「関係の継続」にも、家系の記憶が影響していると考えます。

一見、愛情が冷めたように見える関係。それでも離れられない関係。

そこには、「ご先祖が終わらせることができなかった関係性」のエネルギーが生き続けている場合があります。たとえば、

・一度も「本音」で語り合えなかった夫婦

・離婚したけれど、最後まで未練を抱えていた祖母

・形式だけ保った関係を選んだ両親

そうした「終わらなかった愛」は、形を変えて、次の世代に託されることがあるのです。

でも同時に、こうも言えるでしょう。「それでも一緒にいる」という選択の中には、「目に見えない祈り」が宿っている、と。

感情の起伏を超えたところで、怒りも、悲しみも、すべて受け入れた上で「共に在る」ということ。

それは、激しい愛よりも深く、ロマンチックな言葉よりも静かに、心を支える土台のようなものかもしれません。

ある女性がこんなことを語ってくれました。

再婚後に見えてきた「愛し直す」という選択

最初の結婚は、感情のぶつかり合いばかりの日々。

愛していたけれど、傷つけ合うばかりで、最終的には離婚。

数年後、再婚。穏やかで、波風の少ない関係へ。

最初は「前よりラク」と思ったが、やがて「物足りなさ」を感じるようになったそう。

でもあるとき、ふと気づいたのは「感情をぶつけ合っていた頃、私は愛されている実感を確かめたかった。」

今の人には、そんな確認が必要ない。だから、私はまだ「愛され方」に慣れていなかっただけなんだ」

そこから彼女は、「安心の中にある愛」に自分を慣れさせていくかのように、再婚した相手と、「愛し直す」ように暮らしているそうです。

私たちは、恋のようにときめく関係だけを「愛」だと思いがちです。

でも実は、別れを選ばないことにも深い愛の表現があるのです。

怒りの向こう側にある「悲しみ」に触れたとき。悲しみを超えて、「許し」が芽生えたとき。

そして、もう何も言わなくても、「そばにいられる」と感じたとき。

そこにあるのは、「選んだ」というより、「委ねられているような」愛かもしれません。

ご先祖セラピー方程式にすると

関係の静けさ=共鳴の質 × 家系の許可 ÷ 罪悪感

家系の中で「自分の幸せを選ぶこと」が許されなかった人がいたなら、その人の記憶が、「今ここに残る関係」を通して癒されている可能性があります。

あなたが、「別れない」ことを選んでいるなら、それは「諦め」ではなく、「癒しの場」としての関係性に身を置いているのかもしれません。

わかり合えなかった誰かのために。

語れなかった想いの続きを、今あなたが生きているのかもしれません。

それなら「離れない」という選択こそが、最も静かで、最も強い「愛の証」なのです。

愛することは、見守ることかもしれない

ずっと一緒にいたい。

ずっとここにいてほしい。

離れてしまったら、壊れてしまう気がする。

だから私たちは、ときに「つながり」を守るために、自分をすり減らす道を選んでしまう。

でも、それが本当の愛?

「となりにいること」をやめたら、「あきらめること」になるんだろうか?

もしかしたら、「愛する」ということは、「見守ること」なのかもしれない。

私たちは、誰かを愛したとき、「永遠に一緒にいること」を自然に願います。

でも、本当の愛は、「相手を所有すること」でも、「自分を犠牲にすること」でもなく、「お互いが、その人として生きられること」なのではないでしょうか。

ご先祖セラピーの視点では、「離れること」「距離を取ること」に罪悪感を覚えやすい人ほど、家系のなかに「別れが許されなかった記憶」がある可能性があります。

・離婚がタブーとされていた

・「家を守るために耐える」ことが美徳だった

・どんなに苦しくても、別れられなかった誰かがいた

そうした記憶は、「愛=我慢」「離れたら裏切り」という方程式を無意識に植え付けていきます。

でも今、あなたは「自分自身の人生を生きること」が許されている時代にいます。

だからこそ、愛する人に「自分を失わせない」という選択が、愛のかたちとして必要なのです。

ある女性の決断を、ここでご紹介します。

「手放すことで、つながり直す」

彼女の夫は、5年間ずっと無職。

うつ状態が続き、どんな声かけにも反応がなく、はじめは「私が支えなければ」と必死だったそう。

でも、支えるほどに自分が壊れてしまいそうになってご先祖セラピーへ。

ある日、神社からの帰り道で「私は夫を通して、父を救おうとしていた」と気づいたという。

彼女の父は、心を病みながらも、何十年も誰にも助けを求められなかった。

「私は、あのとき父にしてあげられなかったことを、夫に重ねてやろうとしていたんですね」

その夜、彼女は「あなたの人生は、あなたのもの。私は、私の人生を生きるね」

それは別れでもなく、彼女の愛のカタチ。

「依存から自由になる瞬間だった」と穏やかな表情を彼女は見せてくれました。

数ヶ月後、夫は自ら職を探しに出かけたそうです。

愛は、ときに距離を必要とします。

「救いたい」を手放すことで、「信じる心」が芽生えることがあるからです。

ご先祖ができなかった

別れたくても、別れられなかった。守りたくても、守れなかった。

その記憶の残像を、今の私たちは背負っていることがある。

だからこそ、「離れても、つながっている」という体験を自分自身の人生の中で、はじめて選び直すことができるのです。

ご先祖セラピー方程式で表すと

愛の解放力=信頼 × 自己価値 ÷ 家系の忠誠

人を手放すことは、関係を終わらせることではありません。

「関係の形」を手放すことで、「本質のつながり」が立ち現れてくることがあるのです。

そしてそのとき、ようやく心は「愛とは、相手の人生に敬意を払うこと」だと知ります。

与えることでも、尽くすことでもなく「ただ、その人を、その人として見守ること」。

それこそが、あなたがご先祖から受け取る、新しい愛の姿なのかもしれません。

愛は祈りになる

それでも、わかり合えなかった。

伝えたかった言葉は届かなかったし、最後まで、心が通い合うことはなかったかもしれない。

それでも、あなたはその人と、ひとつの時間を生きた。

同じ部屋にいた日々、名前を呼び合った記憶、たった一瞬、目を合わせて微笑んだあの夜。

すべてが消えるわけじゃないし、すべてが無意味だったわけじゃない。

「愛すること」に、正解も完了もないのかもしれない。

でも、静かに「祈り」へと変わっていく瞬間が、たしかにある。

それは、「もう、わかってもらえなくてもいい」と思えたときかもしれないし、

「この人は、こういう人だったんだ」と、そのままを受け入れられたときかもしれない。

もう話し合わなくても、もう責めなくても、ただ、心の中でその人を「見送るように見守れる」とき、愛は、祈りになる。

ご先祖セラピーでは、「愛の未完了」は次の世代に引き継がれる、と言います。

語られなかった感情、分かち合えなかった想い、決着のつかなかった別れ。

それらは「痛み」としてではなく、「今度こそ、大切にしてほしい」という祈りの種として残っていきます。

だからあなたが、「もう無理にわかり合わなくていい」と思えたとき、それは、ご先祖の中でずっと終われなかった関係に、初めて静かな幕を下ろす行為なのです。

ある女性は、過去に深く傷ついた恋人に、ずっと謝れなかった。

会うこともできず、手紙も出せなかった。

でもある日、21日詣りの神社へ向かう道中「あなたがどこかで幸せでいてくれたら、それでいい。もう、私の中であなたを責めるのはやめます。あのときの私も、精一杯でした。それでも愛してくれたこと、ありがとう」と、思いが溢れてきたそうです。

その瞬間、彼女の中で「許せなかった自分」と「愛されていた記憶」がそっと抱き合った気がしたようだったとおしえてくれました。

わかり合えなかった関係も、やさしく思い出すことができたなら、それはもう「終わり」ではなく、「祈り」だと思うのです。

そしてそこから、新しい「愛の始まり」が生まれます。

傷ついたぶんだけ、やさしくなれる。

愛せなかったぶんだけ、誰かの痛みに寄り添える。

それが、ご先祖から受け継いだ「愛の続きを生きる」ということ。

だから今日、もしあなたがパートナーとの関係に対して何かを決めたなら
どうか、その愛を祈りに変えてください。

その祈りはきっと、あなたの子どもたちの心に、そしてまだ見ぬ未来に、「つながりの光」として届いていくはずだから。

編集後記

私たちは、とても個人的な物語として恋をして、傷ついて、迷って、
それでも誰かを愛し続けてきました。

でも、その感情のひとつひとつをもっと奥から見つめてみると...

それは決して「自分ひとりの感情」ではなかったのかもしれません。

パートナーとの関係に揺れるとき。

言えなかった言葉、分かり合えなかった寂しさ。

無意識に背負っていた役割や距離感。

そのすべてが、「ご先祖たちの、愛の記憶」とつながっていたことに、私たちはもう気づいています。

語れなかった愛、終われなかった恋、守れなかった命。

そして届かなかった言葉。

その祈りの続きを、私たちはこの人生の中で、知らず知らずのうちに引き継ぎ、癒し、そして終わらせてきたのだと思います。

愛するということは、完璧な関係を築くことではありません。

きっと、うまくいかない日々のなかで、それでも目をそらさずに「心に触れ続ける」こと。

誰かに優しくする前に、まず「自分の痛みに誠実でいること」。

そうして、少しずつ、私たちは「祈りのような愛」を学んでいくのかもしれません。

「この愛は、誰の祈りだったのか。」

それはきっと、あなたのものでもあり、あなたの父や母、祖父母たち、そしてまだ言葉にならなかった、

ご先祖たちのものでもある。

そして今日、その祈りの先にいる「あなた自身」に、そっとバトンが手渡されたのです。

だから、大丈夫。

この愛は、すこし不器用で、ときに重たくて、

それでも、あたたかくて、美しい。

あなたの手の中にあるその愛を、これからも、どうか大切に。

また、つぎのお手紙でお会いしましょう。

あなたとあなたの大切な人の人生が愛で満ち溢れるものであり続けますようにとの願いを込めてDESTINYからのお手紙をお届けさせていただいています。

「このテーマについて知りたい」
「こんなサービスがあったらいいな」
「今、こんなことで悩んでいます」

あなたの声をぜひ聴かせていただけませんか?

https://docs.google.com/forms/d/1cmI3soV5IdmhqFvLVkQw0pNYEtJqS07syR2NuVXk0xk/edit

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