「期待してください。期待を超えて成長します」

息子の学校で、理事長先生がそう語ったとき、私はなぜだか、胸の奥がふるえるのを感じました。

まるで、ずっと忘れていた言葉を聞いたような、そんな感覚。

最近では、「人に期待しない方がいい」「期待すると裏切られる」そんな言葉をよく耳にします。

私自身も、そうやって心を守ってきたことがありました。

「期待はプレッシャーになる。期待は重たすぎる。」

だから、期待しない方が優しさなんだと、どこかで思っていたのです。

でも、理事長先生の言葉は、違いました。

そこに押しつけはなく、見返りを求める気配もありませんでした。

ただ、まっすぐに「信じている」という、あたたかなまなざし。

「この子は、きっと大丈夫」

「この子は、もっと伸びていける」

そんなふうに、言葉に出さずとも信じてくれる誰かがいること。

それは、子どもにとって何よりの支えであり、時に、ご先祖たちが私たちに向けていた祈りにも、どこか似ているように感じたのです。

私たちのDESTINYの美意識としてご、「信じる」という行為を「スピ痛を癒すまなざし」と呼ぶことがあります。

スピ痛(スピリチュアル・ペイン)についてはこちらから

それは、過去に果たせなかった願いを未来に託すような、時を超えたあたたかな手渡しでもあるのです。

そして、この「信じるまなざし」は、子育てに限った話ではありません。

パートナーとの関係、仕事の仲間、そして自分自身に向けるまなざし。

誰かを信じること、誰かに信じられること、その両方が、私たちの内側にあるいのちの流れをそっと整えていく。だからこのお手紙では、「信じる」という優しさを、子育ての枠をこえて、ご先祖セラピーの視点から、「人生そのものにひろがるまなざし」として、丁寧にたどっていきたいと思います。

「期待しないほうがいい」という時代の空気

「期待しすぎると、がっかりするよ」

「人には期待しないほうが楽だよ」

「子どもにはプレッシャーになるから、期待はほどほどにね」

そんな言葉を、私たちはいつから当たり前のように受け入れてきたのでしょうか。

たしかに、期待はときに苦しさを伴います。

思うようにいかないとき、裏切られたような気持ちになることもあるし、誰かを信じた分だけ、自分が傷つくような場面もある。

だから私たちは、失望しないために、「期待しない」という選択を覚えました。

あらかじめ距離を置き、心を守る。

それは、ある意味では賢く、成熟したふるまいなのかもしれません。

でも...それは本当に、私たちの本音だったのでしょうか?

ほんとうは、誰かを信じたかった。

ほんとうは、誰かに信じてほしかった。

そんな「期待することをあきらめた気持ち」が、心のどこかに眠っているのではないかと感じるのです。

ご先祖セラピーの視点では、こうした「感情の癖」や「信じることへのブレーキ」も、過去から受け継がれた記憶の影響として捉えます。

たとえば、

・強く期待されたけれど応えられず、心を閉ざした誰かの記憶

・大切な人に裏切られて、信じることをやめた誰かの感情

・家族に期待されなかったまま、自分の価値を見失ってしまった存在

そうした「未完了の思い」が、無意識のレベルで受け継がれていることがあります。

だからこそ、「期待しないほうがいい」という考えの奥には、一族が過去に味わった「期待への痛み」が静かに残っていることもあるのです。

でも、私たちは今、そこに気づくことができます。

そして、その連鎖をやさしく終わらせることもできるのです。

ここからは、「信じるというまなざし」がもたらす癒しと再生について、ご先祖の視点を通じて、ゆっくりと紐解いていきましょう。

「信じる」は、どこから来たのか

「期待してください。その子は期待を超えて成長します」

この言葉に心が揺れたのは、それがただの励ましではなく、「深いところで信じている」というまなざしを感じたからかもしれません。

それはまるで、言葉にならない祈りのようでした。

ご先祖セラピーの視点から見ると、「信じる」という行為は、目の前の誰かに向けたものに見えて、じつは「自分自身の魂の奥」に触れる時間でもあります。

なぜなら、私たちは誰もが、「誰かに信じてもらいたかった存在」だからです。

生まれてきたことを、ただまるごと受けとめてほしかった。

言葉にならない感情や、不器用な愛し方を、否定せず、見守ってほしかった。

そういう「信じられたかった自分」が、誰かを信じることで、静かに癒されていくことがあるのです。

ご先祖たちもまた、自分自身を信じきれなかったことがあったかもしれません。

苦しい時代、家族を守ることに必死で、子どもの可能性や感情にまで、まなざしを向ける余裕はなかったかもしれない。だけどその中にも、

「本当は、信じてあげたかった」

「本当は、信じてほしかった」

そんな「未完了の愛」が静かに息づいていることがあります。そしてそれは、世代を超えて、今この瞬間、あなたのなかに「信じる力」として芽を出そうとしている。

期待ではなく、信頼として。

押しつけではなく、まなざしとして。

結果を求めるのではなく、存在そのものに向けられたまなざしとして、相手を信じることは、過去の誰かの痛みを癒す祈りであり、未来への静かな贈りものにもなっていくのです。

あなたの中に宿る「信じる力」は、どこから来たのでしょうか?

もしかしたらそれは、あなたが受けとり損ねたはずのやさしさを、今こそこの世界に手渡そうとする、ご先祖の想いかもしれません。

「期待=プレッシャー」になってしまう記憶の連鎖

「期待してください」そう言われたときに、胸がふるえたのは、「信じてもらえる」ことの温かさに触れたから。

でも一方で、「期待されるのが怖い」と感じてしまう人も、少なくありません。

それは決して「弱さ」ではなく家系の中で受け継がれてきた、「期待にまつわる痛み」の記憶かもしれないのです。

たとえば、

・親からの強い期待に応えようとして、自分を見失ってしまった誰か

・期待に応えられず、責められたり、見放された経験を持つ誰か

・「うちの家系はダメなんだ」と、そもそも信じることをあきらめてしまった存在

そうした感情は、言葉にされずとも、

家族の雰囲気や無意識の態度として、次の世代に影を落とします。そしていつしか、「期待=プレッシャー」「信じる=怖い」という感覚だけが、私たちの内側に、しこりのように残ってしまうのです。

ご先祖セラピーでは、こうした「未完了の感情」を、「継承された無意識のパターン」として扱います。

それは決して「悪いこと」ではありません。ただ、「終わっていない」だけなのです。

報われなかった努力も、伝えられなかった想いも、本当は信じたかった誰かのまなざしも。

いま、この瞬間を生きる私たちを通して、癒されるのを待っている。

「もう、押しつけじゃなくていい」

「信じるって、もっと優しくて自由なことだったんだね」

そう気づくとき、家系の中に繰り返されてきた「重たい期待」は、「信じるという希望」へと静かにかたちを変えていきます。

もしあなたが、「期待されるのが怖い」「信じられることが重たい」そんな感覚を抱えたことがあるなら、それは、あなたの中にある優しさの証かもしれません。

そして、その優しさがいま、過去を癒し、未来を変える力へと育ちつつあるのです

「信じる」という選択が、家系の流れを変えていく

相手を信じる。それは、簡単そうでいて、実はとても繊細な営みです。

目に見える成果が出ていないとき、周りと比べて不安になったとき、どうしても「結果」に心が引っ張られそうになる。

でも、そのたびに思い出したいのです。

「信じる」というのは、「今、目の前にいる相手」にまなざしを向けること。

「きっと大丈夫」と、根拠のない安心を抱いて、寄り添い続けること。

それは、ご先祖がかつて果たせなかった願いを、いま、私たちが静かに引き継いでいる姿でもあるのです。


ご先祖セラピーでよく出会うのが、「愛し方がわからなかった」「厳しさしか渡せなかった」そんな記憶の断片です。

戦争や貧困、差別や家制度。多くの制限や不自由さのなかで、本当は「信じて見守る」という優しさを手渡したかったのに、それが叶わなかった時代がありました。

だからこそ私たちが今、子どもを信じるという選択をするたびに、それは、過去の記憶にそっと寄り添い、やり直せなかった物語に、やさしい続きのページを差し出すことになるのです。

「信じることで、家系の流れが変わる。」

それは、見えない領域で起きる変化です。でもたしかに、空気が変わる。相手の眼差しが変わると同時に自分自身の感情の波が、静かにととのっていく。

「信じる」ことは、「未来にまなざしを送る祈り」でもあります。

どれだけ時間がかかってもいい。すぐに結果が見えなくてもいい。ただ、あなたがあなた自身を信じ、誰かを信じるまなざしを向けたというその事実が、家系、そして未来にひとつの光をともすのです。

だからこそ「期待してください。その子は期待を超えて成長します」という言葉は、単なる教育のメッセージではなく、過去と未来をつなぐ、「いのちの循環」への呼びかけなのかもしれません。

あなたが信じた相手は、いつかまた、誰かを信じる人になります。

そうして、信じるまなざしは代々受け継がれ、目には見えないけれどたしかな「安心」となって、いのちの中に流れていくのです。

信じるという根が、相手の中に育つもの

「信じてもらえた経験は、人を強くする」ご先祖セラピーの中で、そんな言葉が浮かび上がる瞬間があります。それは、特別な成功体験や褒め言葉ではなく、もっと静かで、もっと根源的なもの。

何もできなくても、何も達成していなくても、「あなたは大丈夫だよ」と、そっと信じてもらえたこと。

それは、見えない根っこのように、子どもの中に静かに根づき、

人生という土を支える「安心感」として育っていきます。

自信がぐらつくとき、失敗を恐れて動けなくなるとき、他人の評価が怖くて言葉を飲み込むとき。

そんな瞬間にふと、「それでも、きっと私は大丈夫」そう思える感覚がある人と、「やっぱり私はだめだ」と責めてしまう人とでは、その後の人生の選択が大きく変わってきます。

そして、この「根っこの違い」は、生まれつきの性格ではなく。幼い頃、どんなまなざしに包まれていたか、という環境記憶によって形づくられるのです。

「期待を超えて成長します」と信じてもらえることは、その子の中に「可能性はある」という仮定を根づかせます。

すぐに成果が出なくてもいい。時間がかかってもいい。でも、自分の中には「育つ力」があると、どこかで知っている。

それは、他人と比べなくてもよくなる自由。失敗しても立ち上がれる回復力。迷っても、いつかまた進めるという安心感。

ご先祖が見届けられなかった「本当の意味での成長」を、することが出来るのかもしれません。

そして、これは相手に限った話ではありません。「信じる」というまなざしを、自分自身に向けたとき。私たちの中にも、もう一度育ちはじめるものがあります。

傷ついたまま置き去りにしてきた小さな自分。

がんばっても届かなかったあの頃の夢。

期待されなかった悲しみと、期待に応えられなかった悔しさ。

それらすべてが、「大丈夫だよ。あなたはちゃんと伸びていくよ」という言葉に、静かに応えはじめるのです。

「信じてもらえること」は、奇跡ではなく、継承です。それは、血のつながりに限りません。ひとつのまなざし、一言のことば、一度の出会い。

そこに込められた「祈りのような信頼」は、時代も血縁も越えて、次のいのちをひらいていくのです。

信じるという循環。いのちの奥に届くまなざし

「信じる」ことには、時間がかかります。「信じられる」ことにも、時間がかかります。

でも一度、そのまなざしがいのちの奥に届くとき。それは、目に見えないほど静かに、しかし確実に、世界の流れを変えていきます。

ご先祖セラピーでは、こうした見えない変化のことを、「いのちの循環が整う」と表現します。

たとえば、相手を信じる→ 相手が自分を信じられるようになる→ 相手が人を信じられるようになる→ 信じられた誰かが、また別の誰かを信じていく

この連なりは、表面的な言葉ではなく、まなざしや態度、生き方そのものを通して受け渡されていきます。

信じるという営みは、言葉よりも深いところに作用する「非言語の記憶の書き換え」とも言えるかもしれません。

そして、こうしたまなざしの循環は、家系に閉じ込められていた「未完了の願い」をも癒していきます。

・「もっと自由に生きてほしかった」

・「挑戦することを怖がらないでいてほしかった」

・「誰かに愛されることをあきらめてほしくなかった」

そんな、かつてのご先祖が伝えられなかった祈り。それを今、私たちが「信じる」という実践を通して、現実の中に生き直しているのです。

たとえ小さな一歩でも、その変化は波紋のように広がっていきます。

・子どもが少しずつ自分に自信を持ち始めた

・家族との関係が、少しやわらかくなった

・自分の中の「こうあるべき」が静かにほどけてきた

それは劇的な変化ではないかもしれません。でも、その小さな変化こそが、「過去を癒し、未来を変える力」になっていくのです。

だからこそ、「期待してください。期待を超えて成長します」という言葉は、教育的なメッセージ以上に、家系に響く「まなざしの再起動」であり、いのちの循環を整えるスイッチのようなものなのかもしれません。

「信じる。」

それは、誰かのためだけではなく、私たち自身の奥にある「信じたかった過去」をも、静かに抱きしめる行為なのです。

まなざしは、「記憶」をほどく鍵になる

「期待してください。その子は期待を超えて成長します」

あの日、理事長先生が語ったその言葉が、こんなにも深く、私自身の内側に響いた理由。

それは「信じる」という行為が、どこまでもやさしく、でも力強く、「記憶」をほどいていくものだからかもしれません。

私たちはつい、「変わること」「成長すること」を、何かを達成したり、欠点を克服したりすることだと考えがちです。

でも本当の成長とは、「本来の自分に戻っていく」ことなのかもしれません。

誰かに信じられたとき、私たちはようやく安心して、自分に還っていける。

言い訳もしなくていいし、無理に強がる必要もない。

ただ「このままでいいんだ」と思える、その感覚が、何よりの癒しになるのです。

そしてその安心感こそが、ご先祖たちが本当に願っていたものだったと、私は思うのです。

「頑張りすぎなくていい」

「他の誰かにならなくていい」

「あなたのままで、ちゃんと光っている」

そんな祈りが、時を超えて、私たちの生きるこの瞬間に届いている。子どもにまなざしを向けるたび、自分自身に信頼を返すたび、その祈りは息を吹き返し、家系という大きな物語の続きを紡いでいくのです。

「信じる」という行為は、たしかに不器用で、不確かなもの。

見返りがあるとは限らないし、報われるとも限らない。

それでも私たちDESTINYは、信じていたいと思います。

目に見えないものが、ちゃんと育っていく世界を。

やさしさが、ちゃんと届く未来を。

信じるというまなざしは、記憶をほどく鍵になる。
それは、誰かのためであると同時にずっと置き去りにされてきた「私たち自身」のためでもあるから。

編集後記

このお手紙を書きながら、私は何度も、「自分は信じてもらえていたのだろうか」「私は、誰かを信じられているだろうか」そんな問いと向き合っていました。

信じることは、簡単じゃない。でも、信じたいと思う気持ちは、たぶん、ずっと昔から私たちの中にあったのだと思います。

結果を出すことや、期待に応えることよりも、「信じてくれる誰かがいる」という記憶は、きっとその人の人生を、静かに支えつづけます。

そして今、もしあなたが「誰かを信じる」ことを選ぼうとしているのなら。

それはきっと、ご先祖が果たせなかった優しさを、あなたが引き継ぎ、未来へとつなごうとしている証なのかもしれません。

このお手紙が、あなた自身のまなざしをそっと包みこみ、信じる力の奥にある「静かな愛」を思い出す、小さなきっかけになれたならうれしいです。

また、つぎのお手紙でお会いしましょう。

あなたとあなたの大切な人の人生が愛で満ち溢れるものであり続けますようにとの願いを込めてDESTINYからのお手紙をお届けさせていただいています。

「このテーマについて知りたい」
「こんなサービスがあったらいいな」
「今、こんなことで悩んでいます」

あなたの声をぜひ聴かせていただけませんか?

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https://docs.google.com/forms/d/1cmI3soV5IdmhqFvLVkQw0pNYEtJqS07syR2NuVXk0xk/edit

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