「魔がさす」という、心の奥で息づくもの。
人は、時に、自分でも驚くような行動を取ってしまうことがあります。
「どうして、あんなことを言ってしまったんだろう」
「なぜ、あの瞬間、抑えられなかったんだろう」
普段なら絶対に選ばないはずの言葉や行動が、ふとした隙間から、まるで何かに突き動かされるように、こぼれ落ちてしまうことがある。
それを、私たちはよく「魔がさした」と表現します。
けれど、この「魔がさす」という感覚。
ただの気の迷い、出来心、衝動。それだけで片づけてしまうには、あまりに奥深いものがあるように思うのです。
もしかしたらそれは、ひとりの心の問題ではなく、もっとずっと深い場所。時を越えて受け継がれてきた誰かの記憶、家系に流れる「言葉にならなかった感情たち」が、ふと立ち上がった瞬間なのかもしれません。
怒り、嫉妬、焦り、孤独感。「なぜ今、これを感じるのだろう?」と不思議に思うその感情には、あなたを生きるための物語だけでなく、まだ癒されていない、過去からの祈りや痛みが、そっと重なっていることがあるのです。
「ごめんね」
「ありがとう」
「怖かった」
「本当はこうしたかった」
言葉にはならないけれど、その衝動の奥には、たしかに何かの響きがある。
それは決して、あなたを惑わすためではなく、まだ語られていない痛みを、あなたの心を通して、もう一度感じ、癒し、終わらせるために訪れるもの。
もしあなたがこのお手紙を通して「魔がさしたあの日」を思い出すときがあったとしても、どうか自分を責めないでください。
その出来事こそ、あなたが「つなぎ手」であるからこそ起きたこと。家系の深い記憶に触れた、癒しの扉のひとつだったのかもしれないから。
魔がさすとき、心の奥で何が起きているのか
あの日、あの時、言わなければよかった言葉を口にしてしまったこと。
必要のないものを衝動的に買って、あとから後悔したこと。
誰かの優しさを、理不尽に突き返してしまったこと。
「どうしてあんなことをしてしまったんだろう。」
「私はそんな人間じゃないはずなのに。」
心の中で何度も繰り返す問いかけに、答えは見つからず。
ただただ、後悔と自己嫌悪が積もっていく。
「魔がさした」と自分をなだめながらも、どこかに説明のつかない、底なしのざわめきが残る。
「あのとき、あの衝動の奥で、何が起きていたのだろう?」
もしも、それが自分一人の心だけで起きていた現象ではないとしたら?
心の奥底で、あなたという個人の境界を越えて、もっと遠い記憶の波が押し寄せていたとしたら?
たとえば、
怒りを我慢し続けたご先祖がいたのかもしれない。
愛を伝えられず、苦しんだ誰かがいたのかもしれない。
本当は泣きたかったのに、笑顔で過ごしたあの人がいたのかもしれない。
そして、その「抑え込まれた感情」が、時を超えて、あなたの中で「魔がさす」という形で顔を出したのだとしたら?
人は誰しも、自分一人で生きているわけではありません。私たちは、「この命」の背景にある何代もの記憶を受け継いで生きています。
その中には、叶わなかった夢も、言えなかった言葉も、涙を流せなかった夜も、そっとしまわれたままの想いが、息づいているのです。
「魔がさした」と感じる瞬間は、もしかすると、癒されるのを待っている記憶が、あなたにそっと触れた合図なのかもしれません。
「魔」という言葉に宿る、見えない力
「魔がさした」という言葉を聞くと、私たちはどこか、怖いもの、不吉なもの、避けるべきものとして受け止めがちです。
まるで、自分が「弱い心」を持っているから、「悪いもの」に負けてしまったかのように感じてしまう。
けれど、そもそも「魔」という言葉は、決して「悪」や「不運」だけを意味しているわけではありません。
「魔」という字は、人の心を惑わせ、迷わせるものを指し示し、仏教では「煩悩」や「執着」「恐れ」といった、人間の心に入り込む影のような存在を表します。
それはまるで、静かに閉ざされた部屋の片隅で、じっと息を潜めている「誰か」のようなものかもしれません。
その誰かは、「忘れないで」と、「気づいて」と、ずっと待っている。
あなたの心がふとしたときに揺れるのは、何かがあなたを試そうとしているからではなく、
あなたの中にしまわれたままの「感じられなかった痛み」が、そっと手を差し出したからなのかもしれません。
怒りを感じることも、誰かを羨むことも、ふと自己否定に沈むことも。それは「ダメな自分」ではなく、もっと奥にある、見えない記憶の響き。
その響きが届く瞬間、私たちは「魔がさした」と感じるのかもしれません。
けれど、それは決してあなたを責めるためではなく、むしろ、あなたにしかできない「癒し」を始めるために訪れる合図なのです。
「魔がさす」という出来事を、ただの失敗や後悔に終わらせないでください。
それはきっと、あなたの命に流れ込んでいる、いくつもの祈りや願い、そして痛みの「かけら」が、あなたを通して、もう一度語られようとしている瞬間なのだから。

「魔がさす」瞬間に潜む、ご先祖の未完了の想い
「魔がさす」という出来事は、誰にでも起きうるものです。
ここでは、ご先祖セラピーのセッションで実際にあったケースを紹介しながら、「なぜあの時、あのような衝動が起きたのか?」を紐解いてみたいと思います。
case1 「怒鳴りたくなんてなかったのに」母への怒りが止められなかった女性の話
30代の女性・Rさんは、普段はとても穏やかで優しい性格です。
けれど、母親と電話をしているとき、些細なことで突然声を荒げ、怒鳴ってしまうことがありました。
電話を切った後は、ひどい自己嫌悪に襲われ、「どうしてあんな言い方をしたのか分からない」と涙を流します。
セッションで家系を見ていくと、Rさんの曽祖母が幼少期、親からの理不尽な叱責を長年受け続け、「声を上げたい」「抵抗したい」という思いを抱えたまま生涯を終えたことが分かりました。
Rさんの中で「魔がさすように湧き上がる怒り」は、曽祖母の抑圧された感情が、時を超えてRさんの中で解放を求めていたのかもしれません。
怒りが湧くたびにRさんは苦しみましたが、その感情を受け止め、「私がその痛みを感じ直してあげるから、もう大丈夫だよ」と祈ったとき、次第に母との関係も穏やかに変わっていったのです。
case2 「また無駄遣いをしてしまった」お金への罪悪感に苦しむ男性の話
40代の男性・Sさんは、収入は安定しているものの、なぜかお金を貯めることができず、つい高額な買い物を繰り返してしまう癖がありました。
「また無駄遣いをしてしまった」と後悔するたびに、「自分はだらしない人間だ」と責め、自己否定のループに陥っていました。
セッションで家系をたどると、Sさんの曾祖父は事業に失敗し、「自分は一族を苦しめた」「お金を扱う資格がない」と深い罪悪感を抱いて亡くなったことがわかりました。
Sさんが繰り返していた浪費の衝動は、曾祖父が感じきれなかった「お金をめぐる苦しみ」の記憶を、無意識に再現していたのかもしれません。
Sさんが「この感情は誰のものだろう?」と問い、曾祖父の存在に思いを馳せたとき、「おじいちゃん、もう大丈夫だよ」と心の中で声をかけたとき、不思議とその浪費癖は落ち着き始めたのです。
case3 「幸せを素直に受け取れない」プロポーズを断ってしまった女性の話
婚約を目前にしたとき、なぜか相手の好意を素直に受け取れず、結局別れを選んでしまった30代の女性・Cさん。「私、どうしても幸せになりたくないみたい」と涙を流していました。
Cさんの家系には、戦争で夫を亡くした女性が多く、「愛した人を失う苦しみ」を深く刻んだ歴史がありました。
「幸せになると失う」「愛すると別れがくる」という無意識の恐れが、Cさんの中で「魔がさす」ように現れ、せっかくの幸せを遠ざける選択をさせていたのです。
Cさんはその後、「私の幸せを恐れないで」「大丈夫だよ」と、家系に流れる無意識の誓いを、そっと、ほどく祈りを続け、新しいパートナーとの出会いを受け入れる準備ができるようになりました。
小さな「魔がさした出来事」の奥に、誰かの物語がある。怒り、衝動、無駄遣い、拒絶。どれも一見すると、ただの自分の問題のように思えます。
けれど、その奥には、まだ言葉にできなかった、誰かの「本当の気持ち」が眠っているのかもしれません。
「魔がさした」その瞬間こそ、家系に流れる物語の「解け残し」に、光を当てるチャンスなのです。

「魔がさした瞬間を癒しに変える」ご先祖セラピー
「魔がさした」その出来事が、誰かの未完了の想いであったとしても、それをただ知るだけでは、癒しは十分ではありません。
では、その痛みや感情をどうやって癒していけばいいのでしょうか?
ここからは、ご先祖セラピーの実践として、「産土旅」「ジェノグラム」「21日詣り」の三つのアプローチを紹介します。
1. 産土旅で「誰の痛みが響いているのか」を探しにいく
「魔がさした」その感情は、誰のものなのか?私たちはふとした衝動を、自分ひとりの問題だと思い込みがちですが、家系の中には「声を上げられなかった人」「願いを閉じ込めた人」が必ずいます。
産土旅は、自分が生まれた土地や先祖ゆかりの場所を訪れ、土地の記憶に触れ、ルーツをたどる時間を持つこと。
その旅の途中で、ふと見上げた空や、手に触れた石や木、神社の佇まいが、言葉にならなかった祈りの余韻を運んでくれることがあります。
「魔がさした」瞬間に浮かんだ感情を思い出しながら、
「私が抱えているこの想い、誰のもの?」
「この痛みは、どこから流れてきたの?」
そう問いかけながら歩く産土旅は、心の奥深くに沈んでいた記憶をやさしく掘り起こし、癒しへの扉を開いてくれます。
2. ジェノグラム「感情家系図」を描き、流れを見える化する
「魔がさす」出来事を、より具体的にひもとくためには、家系を「見える形」にすることが役立ちます。
それが、ジェノグラム。家族のつながりを一枚の紙に描き出し、生きた時代や出来事、性格や感情のパターンまでを書き込む家系図のようなものです。
「怒りを飲み込んでいた人はいないか?」
「犠牲を選んだ人はいなかったか?」
「愛を受け取れずに終わった人は?」
そうした問いを重ねながら書き出していくと、
自分の「魔がさす」瞬間が、誰かの未完了の感情を繰り返していたのだと見えてくることがあります。
ジェノグラムを描くことで、自分が「つなぎ手」として何を受け取り、何を癒す役目を持っているのかが、少しずつ輪郭を帯びてくるのです。
3. 21日詣り「もう大丈夫だよ」の祈りで、家系の記憶をそっとほどく
見つけた「魔」の記憶を、ただ知るだけでは癒しきれないこともあります。
そこで大切なのが、祈りの力です。21日間、同じ氏神神社に通い、静かに手を合わせて「ごめんなさい」を伝える。
21日というのは、習慣や意識のパターンが変わり始める節目の数字。
「私は、もうこれを繰り返さなくていい」
「この痛みを手放し、私の代で終わりにします」
そう心の中で宣言しながら、毎日同じ場所に足を運ぶことで、
家系に流れる記憶の波を、静かに癒していくのです。
「魔がさした自分」を責めるのではなく、「魔がさした瞬間」を受け止め、その奥にある誰かの痛みを、祈りの中で抱きしめていく。
その積み重ねが、やがて「私の人生は、私のもの」と言える静かな強さを育てていきます。
「魔がさす」瞬間は、何度でも、訪れます。けれど、そのたびに自分を責め続けるのではなく、「これは、誰の記憶?」「何を癒そうとしているの?」と問いかけ、産土旅で歩き、ジェノグラムで見つめ、21日詣りで祈り、ひとつずつほどいていく。
それはきっと、自分のためだけでなく、ご先祖たちが言えなかった「ありがとう」や「ごめんなさい」を、
ようやくこの時代で届けるための道のりでもあるのです。
魔がさした夜を越えて
人生には、ときどき、理由もわからないまま心がざわめく夜があります。
言わなくていいことを口にしてしまったり、誰かの優しさを、つい冷たく突き返してしまったり。
「またやってしまった」と肩を落とす夜が、静かに訪れます。
でも、私は思うのです。そんな夜こそ、心がそっと叫びをあげていて「もう限界だよ」「気づいてほしいんだよ」そんな小さな声が、私の中で息づいている。
もしかするとそれは、私ひとりの声ではなくて、誰かがずっと胸の奥にしまい込んでいた痛みの響きかもしれません。
おじいちゃんの声かもしれないし、ひいおばあちゃんの声かもしれない。遠い昔の、名前も知らない誰かの祈りのかけらかもしれません。
だから私は、魔がさした夜にそっと目を閉じ、「大丈夫だよ。私が受け止めるから」そう心の中でつぶやくようにしています。
それだけで、何かがすぐに変わるわけではありませんし、魔がさす夜は、また訪れるかもしれません。
でも、そんな夜を責めすぎずに、そのたびに少しずつ、誰かの痛みを抱きしめていく。それで十分なんだと思います。
魔がさした夜を越えた私は、きっと、昨日より少しだけ優しい人になっているはずだから。

編集後記
私たちは、誰しも一度は「魔がさした」という経験を持っています。
あの時、どうしてあんな言葉を言ってしまったのか。
なぜあの行動を止められなかったのか。
その後悔は、胸の奥で何度も繰り返され、ときに自分を責める材料になってしまうこともあります。
けれど、今回のお手紙でお伝えしたかったのは、その「魔がさす瞬間」は、ただの失敗や弱さではないということ。
それは、もしかしたら誰かが抱えてきた痛みや、言えなかった言葉の残響が、ふとした拍子に、あなたを通して現れたものかもしれない。
つまり、「魔がさす」は、家系に流れる物語の続きとして、何かを感じさせるサインなのだということです。
だからこそ、魔がさした自分を責める必要はありません。ただ立ち止まり、深呼吸をして、
「今、私の心が限界に達したんだな」
「誰かの痛みを受け取ったのかもしれないな」
そう気づいてあげることができれば、その瞬間から、癒しの物語は始まります。
これは、あなたが誰かの痛みを引き受け、次の世代に渡さないための、優しいバトンでもあるのです。
どうか魔がさしてしまったときは、「大丈夫だよ」と自分自身にそっと声をかけてあげてください。
それが、あなた自身と、遠い記憶の中で癒しを待っている誰かを、そっと支える力になるから。
また、つぎのお手紙でお会いしましょう。

あなたとあなたの大切な人の人生が愛で満ち溢れるものであり続けますようにとの願いを込めてDESTINYからのお手紙をお届けさせていただいています。
「このテーマについて知りたい」
「こんなサービスがあったらいいな」
「今、こんなことで悩んでいます」
あなたの声をぜひ聴かせていただけませんか?
あなたの声をぜひ聴かせていただけませんか?
https://docs.google.com/forms/d/1cmI3soV5IdmhqFvLVkQw0pNYEtJqS07syR2NuVXk0xk/edit