ほんとうの「ありがとう」は、正直さの先にある
「奇跡を起こしたいなら、感謝をしなさい」
そう言われたことがある方は、少なくないかもしれません。
実際、感謝の習慣が私たちの心身に良い影響を与えることは、心理学の分野でも明らかにされています。
たとえば、感謝日記をつける習慣には、楽観性の向上やストレスの軽減、身体的な健康改善といった効果があると報告されています。
また、感謝と人生満足度には強い相関関係があり、感謝を感じることで人はより幸せになり、その幸せがさらなる感謝を生むという、良い循環があることも確認されています。
けれど、そんな「ありがたさの魔法」が、どうしても自分にはしっくりこないと感じたことはありませんか?
「感謝しなきゃ」と自分に言い聞かせながら、心のどこかでは納得できていない。
誰かに感謝している「ふり」をしながら、実際にはモヤモヤとした違和感が残っている。
それは、感謝の「かたち」だけを真似ていて、心の深いところが、まだ置き去りになっていたからかもしれません。
私自身、「ありがたいと思わなきゃいけない」と思えば思うほど、かえって息苦しさを感じた経験がありました。
「苦しい」と言えずに、「悲しい」と感じることをやめて、代わりに「ありがとう」と笑顔で返してしまう。
それは、感謝ではなく「演技」だったのだと。
実は心理学の研究でも、「感謝が必ずしも倫理的な行動につながるとは限らない」と指摘されています。
たとえば、2020年の研究では、「恩義」を感じることが、道徳的判断をゆがめてしまうことがあるとも報告されているのです。
つまり、感謝にはプラスの面がある一方で、無理やり感じたり、強いられたりした場合には、むしろ「本当の自分」から遠ざかってしまうリスクもあるということです。
そして、私が本当に実感したのは「感謝しよう」とするよりも、「正直でいよう」と決めたときに、初めて現実が動き出すということでした。
「いやだ」と言えたとき。
「もう限界」と伝えられたとき。
「わたしはこうしたい」と、心の奥の声に従えたとき。
その小さな正直さが、不思議と物事を動かしていく。
それは、誰かに気に入られるための言葉ではなく、「命の本音」に触れた瞬間だったのだと思います。
このお手紙では、「今より正直になりたい」と願うあなたの心が、ただの「わがまま」ではなく、世界とつながる最初の扉であることをお伝えしていきます。
正直に生きることは、たしかに怖いことなのかもしれません。
でもその先には、誰かの期待ではない、自分だけの選択と、本当に深い「ありがとう」が、静かに待っているのだと思います。

正直に生きることは、なぜ怖いのか
「いやだ」と言いたくても言えなかったこと。
「これがいい」と思っても選べなかったこと。
きっと、あなたにも一度や二度ではなく、そういった経験があるのではないでしょうか。
私たちは、子どもの頃から「空気を読む」ことを教えられてきました。
周囲に合わせること、波風を立てないこと、自分の気持ちよりも場を優先すること。
そんな「ふるまい」を身につけるうちに、いつの間にか、「正直さ」は「リスク」になってしまったのです。
たとえば、家庭では「親に感謝しなさい」「文句を言わず我慢しなさい」といった言葉の裏に、「自分の本音は後回しにするもの」という暗黙のメッセージが潜んでいました。
たとえば、学校では「みんなと同じ」が正解であり、違う意見や態度をとると、「浮く」「わがまま」と見なされてしまう。
そこには、「正直であること」よりも「好かれること」が優先される空気がありました。
そして、社会に出てからは「自己主張の強い人」「意見を言う人」が敬遠されることすらあります。
気づけば、自分の本音を口にすることは、「わがまま」や「面倒くさい人」というレッテルと背中合わせになっていたのです。
そのような環境の中で、正直に生きることが怖くなってしまうのは、ある意味、とても自然なことです。
心理学の研究でも、「他者から拒絶されることは、人間の脳にとって生命の危機と同じくらいのストレス反応を引き起こす」ことが示されています。
つまり、私たちは無意識に「嫌われないように」「拒まれないように」ふるまおうとするのです。
でもそうやって守ってきた「やさしさ」や「協調性」が、気づけば「自己喪失」につながっていたとしたら、どうでしょうか。
「やりたいことがわからない」
「なぜか毎日が疲れる」
「誰かといても満たされない」
その背景には、長年、自分の声を抑えてきたことによる「心の鈍麻」があるかもしれません。
ある種の「いい人でいようとする態度」は、実は自律神経やホルモンバランスにまで影響を及ぼすことがわかっています。
慢性的なストレスは、思考力や判断力を低下させ、自分の「好き」「嫌い」さえも感じにくくしてしまうのです。
正直になることは、怖い。それは、「生きのびるための術」が、私たちの中にしっかり根づいているからです。
でも、本当の意味で生きるというのは、その「術」に気づき、ほんの少しずつでも、自分の声を取り戻していくことではないでしょうか。
「いやだ」と言えること。
「これが好き」と選べること。
「やりたいことを、やりたい」と願えること。
それは、誰かを傷つけるためではなく、自分をこれ以上、傷つけないための行動なのです。
「感謝」の名のもとに見失われていた「正直さ」について、もう少し深く掘り下げていきたいと思います。
感謝という「演技」が起こす、すれ違い
「ありがとう」その言葉には、たしかに人の心を温める力があります。
小さな「ありがとう」が、人間関係をほどき、人生をなめらかにしてくれることもあるでしょう。
しかし、私はあるとき気がついたのです。自分が口にしていた「ありがとう」が、本当の感謝からではなく、「言わなきゃいけないから」言っていただけだったことに。
誰かに優しくしてもらった。
本来なら「嬉しい」と思えるはずなのに、心の奥底では、なぜか重たさや、モヤモヤが残っている。
それでも、「ありがたい」と思わなきゃ、「感謝できる人でいなきゃ」と自分に言い聞かせていた。そんなことが、何度もありました。
感謝は、本来、自発的な心の動きのはずです。でも私たちはいつのまにか、「感謝はすべきもの」になってしまっている。
すると、感謝が「感情」ではなく「演技」になってしまう瞬間があるのです。
心理学の研究によれば、感謝にはたしかに多くの効能があります。感謝の感情を育てることで、幸福感や健康状態が向上し、対人関係もより良好になることが明らかにされています。
しかしその一方で、「恩義を感じすぎること」が、かえって人の判断や行動をゆがめることもあるという研究もあります。
たとえば、誰かに何かをしてもらったとき、「申し訳ない」「期待に応えなきゃ」という義務感のほうが強くなってしまうと、本来の「ありがとう」が、プレッシャーに変わってしまうのです。
私たちの心は、想像以上に繊細です。
どんなに立派な言葉を口にしていても、そこに自分の正直な気持ちが乗っていなければ、どこかで苦しくなってしまうものなのです。
「ありがとう」と言いながら、本当は傷ついていたり、無理をしていたり、納得できていなかったり。
そんなふうに、自分を置き去りにしたままの感謝は、残念ながら、奇跡を引き寄せる力にはなりません。
それは、ただ「良い人」としてふるまうための手段であり、「わたし」が抜け落ちた、空っぽの言葉になってしまうのです。
けれど逆に、「本当はつらかった」「無理してた」「言えなかったけど、いやだった」
そんな気持ちをちゃんと見つめ、正直になったあとににじみ出てくる「ありがとう」には、どんな理屈よりも強い、命の力が宿っていると感じます。
正直さのない感謝は、義務になり、演技になります。
でも、正直さの上に生まれる感謝は、しみわたるように人の心を動かします。
「ありがとう」は、言葉ではなく「状態」になる。その「状態」にたどり着くには、まず自分に正直になることが必要なのだと、私は身をもって知ることができました。
私自身が実際に「いやだ」と言えた瞬間、そして「これがいい」と選んだときに起こった、小さな奇跡のことをお話ししていきます。
「いやだ」と言えた日
人生の中で、心が静かに震えるような瞬間があります。
それは、特別な出来事が起きた日ではなく、たったひとこと、正直な言葉を口にできた日だったりします。
遠くはない、少し昔のお話になりますが。
私自身もずっと「いい人」でいようとしてきました。嫌なことを断れず、苦手な人にも笑顔で接し、「大丈夫」「平気」と言いながら、本当の自分を奥に押し込めていたのです。
「いやだ」と言ったら、嫌われるかもしれない。
「これがいい」と主張したら、わがままだと思われるかもしれない。
そんな思いが、いつも心のどこかにありました。
けれどある日、ほんの小さな場面で、どうしても譲れない気持ちに気づいたのです。
そのとき私は、いつものように笑って流すのではなく、静かに、でもはっきりとこう言いました。
「ごめんなさい、それはちょっと、いやなんです。」
相手の反応が怖くて、心臓の音がいつも以上に大きく響いているのがわかりました。
でも、その言葉を口にした瞬間、
胸の奥にあった重たさが、すーっと溶けていくのを感じたのです。
それは、何かを「拒絶」したというよりも、自分に「忠実」でいられた感覚でした。
別の日には、こうも言えました。
「私は、こっちを選びたいです。」
その選択は、誰かから見れば効率が悪く、期待外れに映ったかもしれません。
でも、その瞬間に感じたのは、まるで自分の命が「ありがとう」と微笑んでくれたような、
とても静かで力強い感覚でした。
私たちは、思っている以上に、「誰かの期待」や「社会のルール」に従って生きています。
でも、本当はわかっているのです。
「やりたいこと」や「大切にしたいもの」が、心の奥にはちゃんとあることを。
ただ、それを口にする勇気が出なかっただけ。
正直でいることは、何かを壊してしまうようで、怖かっただけ。
けれど、正直になることで壊れる関係は、最初から「本当の関係」ではなかったのかもしれません。
そして、正直になったことで生まれた関係は、何よりもしなやかで、あたたかく、信頼に満ちたものでした。
人と分かり合いたいなら、まず、自分と分かり合うことが必要です。
誰かに本当の「ありがとう」を伝えたいなら、まず、自分の気持ちに「うん、わかってるよ」と言ってあげることが大切だと思うのです。
「いやだ」と言えた日。「これがいい」と言えた日。
それは、私が「私」として生き直し始めた、最初の一歩でした。

「正直な気持ち」を許せなかった理由
なぜ私たちは「正直にいたい」と思いながらも、それを自分に許せないのか?その背景を探っていきます。
「正直に生きたい」それは、とても自然で、まっすぐな願いのはずです。
けれど、私はずっとその言葉を自分に許すことができませんでした。
「ちゃんとしなきゃ」
「人の役に立たなきゃ」
「夢なんて現実的じゃない」
そうやって、自分の本音にブレーキをかけることが「当たり前」になっていたのです。
私たちは、いつの間にか「役に立つこと」や「意味のあること」を選ぶ癖を身につけています。
逆に、誰かの期待に応えない選択、自分が本当にしたいことは、「わがまま」だと感じてしまうのです。
けれど、振り返ってみると、その背景にはちゃんと理由がありました。
たとえば、子どもの頃、自由にやりたいことをしていたときに、「そんなことしてないで宿題しなさい」「遊んでばかりいないで、ちゃんとしなさい」そんな言葉を繰り返し聞いて育っていたとしたら、「やりたいこと=怒られるもの」という無意識の関連づけが心に残っていても不思議ではありません。
または、大人になってから、
「やりたいことがあっても、お金にならないよ」
「そんなことで生活していけると思ってるの?」
といった「正論」の数々によって、「好きなことは趣味にとどめるべきだ」と信じ込んでしまう人も多いのではないでしょうか。
そうやって積み重ねられてきた小さな言葉たちが、私たちの中に「やりたいことは選んではいけない」という「心の壁」をつくっていきます。
心理学では、こうした無意識の制限を「リミティング・ビリーフ(制限信念)」と呼びます。
これは、「自分には価値がない」「うまくいくはずがない」などの深い思い込みであり、自己実現や選択の自由を知らず知らずのうちに妨げてしまうのです。
でも、本当は正直に生きることは、誰かに迷惑をかける行為ではなく、自分の命を生きるという、最もシンプルで誠実な選択です。
私はあるとき、自分に問いかけてみました。「なぜ、そんなにのが怖いの?」と。
その答えは、「正直に伝えて、嫌われたら怖い」というものでした。
つまり私は、「正直にいたいこと」そのものよりも、「期待を裏切ること」を怖がっていたのです。
正直伝えたいことは、たいてい「理由」では説明できません。でも、言葉にならないほどの「熱」や「響き」があります。それを否定し続けていると、いつか心が折れてしまう。
逆に、「自分の正直な気持ち」を信じはじめたとき、不思議と人生がチューニングされはじめるのです。
だから私は、今ようやく言えるようになってきました。
「私は、正直に生きたい」それは、ただの自己満足ではなく、誰かの期待でもなく、命が望む方向に、まっすぐ向かっていくことだと。、
その「命の正直さ」が、どうして現実の変化や「奇跡」を呼び込むのか。見えないエネルギーの流れとともに、お伝えしていきます。
奇跡は、「正直な周波数」にだけチューニングされている
人生にはときどき、「どうしてこんなタイミングで?」と思うような、偶然とは思えない出来事が起きることがあります。
それは、長く願っていたことが突然叶ったり、必要な人や情報が、まるで導かれるように目の前に現れたりするような瞬間です。
こうした現象を「引き寄せ」と呼ぶ人もいれば、「シンクロニシティ(意味のある偶然)」と説明する人もいます。
でも私が体感としてわかったのは、「正直であること」が、この見えない流れとチューニングを合わせる「鍵」になっているということでした。
これまで、「いい人であろう」と頑張っていた時期には、どれだけ努力しても物事がうまく進まず、どこかでいつも「空回り」しているような感覚を抱えていました。
でも、自分の気持ちをごまかすのをやめ、本当は「いやだ」「やりたい」「こっちがいい」と思っていることに素直になったとき、なぜか急に道がひらけるように、流れが変わっていったのです。
たとえば、「もうこの仕事はやりたくない」と認めたとき、まったく予想していなかった新しいチャンスが舞い込んできたことがありました。
またあるときは、「本当はこの人と距離を置きたい」と自分に正直になったとたん、その人から自然に離れていったこともあります。
そういった変化は、「こうすれば引き寄せられる」という方法論ではなく、「自分の周波数」が変わったから起きた現象だったのだと思います。
量子力学の世界では、「観測されるもの(現実)」と「観測者(自分)」の状態が影響し合っているという考え方があります。
つまり、自分がどんな「周波数」を出しているかによって、出会う出来事や人が変わっていくということです。
私たちが嘘をついたり、自分を押し殺して生きているとき、その周波数はどこか曇っていて、現実もまた、「ずれている」ように感じられます。
逆に、「これが私の本音です」「これが好きです」「こう生きたいです」と自分に正直になると、その素直なエネルギーが現実に響きはじめるのです。
もちろん、正直に生きることには怖さも伴います。人間関係が変わることもあるし、誤解されたり、孤独を感じることもあるかもしれません。
でも、正直に出した「周波数」にだけ、奇跡は共鳴するのです。
なぜなら、奇跡とは「たまたま起きる出来事」ではなく、
「自分という命が、本来のリズムを取り戻したときに起きる自然な結果」だからです。
だからこそ、正直に生きることは、引き寄せのための「手段」ではありません。
それ自体が、本質的な奇跡なのです。
「正直に生きる」ことが、どのようにして自分を取り戻し、人生を動かしていくのか。より現実的な視点からお話ししていきます。

「正直に生きていく」ご先祖の祈りを継ぐということ
「正直に生きたい」そう思えるようになるまで、私はずいぶんと遠回りをしてきました。
心のどこかに「正直でいたい」という願いがあっても、それを口にするのが怖かったり、「私なんかが」と、自分で自分を止めてしまったり。
でも今、ようやく気づけたのです。「正直に生きる」というのは、自分勝手な行為ではなく、命の流れに正直に生きることなのだと。
ご先祖セラピーの視点から見ると、わたしたち一人ひとりの中には、何世代にもわたる記憶や願いが流れています。
ときに、先祖が果たせなかった夢や、封じ込めてきた感情が、私たちの中で「もう一度、光の下に出てこようとしている」のです。
「正直に生きる」という行為は、もしかしたら、過去の誰かがずっと願いながらも叶えられなかった祈りの「続きを生きる」ことなのかもしれません。
たとえば、自由に表現したかったけれど、時代や立場の制限でそれが叶わなかったご先祖。
本当は学びたかったけれど、家の都合で諦めたご先祖。
本音を言えずに生き抜いたご先祖。
そうした無数の「語られなかった願い」が、今、あなたの中で「これがやりたい」「こう生きたい」という形をとって、目覚めていることがあります。
正直に生きることは、単に「好きなことをする」という自己満足ではなく、代々受け継がれてきた「いのちの願い」に応えることでもあるのです。
私自身、「正直に生きよう」と思い始めてから、自然とご縁が変わり、応援してくれる人たちが増えていきました。そして不思議と、過去にしこりを感じていた家族との関係も、少しずつ癒されていったのです。
もしかしたら、それは私の中の「止まっていた流れ」が動き出し、ご先祖たちの記憶と和解しながら、新しい生き方を選び直した瞬間だったのかもしれません。
「自分を生きる」というのは、「自分だけ」のことではない。
それは、誰かのぶんまで、いまを丁寧に生き直すという、「静かな継承」でもあるのです。
だから、やりたいことをやることを怖がらなくていい。
それは、あなたの中に宿る何百年もの祈りが、ようやく言葉になっただけかもしれません。
あなたがあなた自身を選ぶとき、そこには必ず、見えない応援がそっと寄り添っています。
過去を否定するのではなく、超えていくために。
そんな「正直な選択」をした人たちが、どのようにして奇跡を現実に引き寄せたのか、
実例をまじえながらお伝えしていきます。
「奇跡を起こす人」は、正直に生きることを選んだ人
奇跡を起こす人は、特別な才能を持った人でも、特別に運がいい人でもありません。
私がこれまで出会ってきた「現実を動かしていく人たち」は、たったひとつの共通点を持っていました。
それは、「正直に生きること」を選んでいたことです。
自分の気持ちに、嘘をつかない。違和感をごまかさない。
誰かにどう思われるかよりも、自分の本音に耳を澄ませている。
もちろん、それは簡単なことではありません。ときには、孤独を感じることもあるでしょうし、他人の期待を裏切るように感じる瞬間もあります。
けれど正直でいるというのは、そのたびに「自分の命に誠実であろう」と決め直すことなのです。
ご先祖セラピーの視点から見れば、この「正直さ」は単なる性格の話ではなく、「家系に流れてきた無意識のパターンを塗り替える選択」でもあります。
たとえば、代々、我慢することが美徳とされてきた家系。「こうあるべき」という枠組みの中で、本音を語れなかった人たち。
表面的には「穏やかな家庭」に見えたとしても、その奥にある「感情の未完了」が、静かに受け継がれていくことがあります。
そんななかで、「私は、いやなことをいやと言う」「私は、やりたいことを選ぶ」「私は、自分の本音とつながって生きる」と決めることは、無意識の流れを変える、大きな革新になります。
つまり、あなたが正直になることは、ご先祖たちの記憶と祈りのうえに、新しいストーリーを編み直していくことでもあるのです。
正直さは、最初こそ不器用に見えるかもしれません。けれどその姿には、周囲の人の心を静かに動かす力があります。
なぜなら、誰もがほんとうは知っているからです。「正直でいたい」「わたしも本音を大切にしたい」と。
正直に生きている人の言葉や行動には、計算のない透明さがあります。その透明さこそが、「世界の見えない歯車を動かす「奇跡の周波数」となるのです。
そしてもうひとつ。
正直でいることは、感謝の本質をも引き出します。
無理に「ありがとう」と言わなくても、本当に心から「ありがとう」と感じる瞬間は、必ず「正直な選択」のあとにやってきます。
だから私は今、こう確信しています。
奇跡は、感謝の中にあるのではなく、正直さの中に生まれていくものです。
感謝は、正直に生きた先に自然とにじみ出る「命の響き」なのです。

編集後記
「正直に生きたい」そんな、たったひとつの願いを、私たちは、いつからこんなにも難しく感じるようになってしまったのでしょうか。
でも今なら、こう思えるのです。
その願いは、ただのわがままではありませんでした。
誰かを困らせたいわけでも、現実から逃げたいわけでもない。
ただ、自分という命を、自分の手であたためてみたかっただけなのだと。
無理に感謝しなくていい。無理に許さなくてもいい。
「ありがとう」が言えない日があっても、大丈夫です。
それよりも大切なのは、今ここで、「ほんとうの気持ち」に目を向けること。
「いやだ」「こうしたい」「もうやめたい」そんな自分の声に、耳を澄ませてあげることです。
正直でいることは、痛みを伴うこともあります。でも、嘘をつかずに生きるということは、それだけで、いのちに誠実な祈りなのだと思うのです。
そしてその祈りは、あなたの中だけで完結するものではありません。
ご先祖たちの未完了の想いや、世代を超えて受け継がれてきた抑圧や葛藤。
そのすべてが、あなたという存在を通して、静かに癒され、動き出していくことがあります。
「正直に生きたい」その一歩が、あなたの未来だけでなく、あなたの後ろにいる人たち、そしてこれから生まれてくる誰かの未来まで、やさしく明るく照らしていくのです。
正直さは、きっと、奇跡の入口。
ほんとうの「ありがとう」は、いつだってその先に咲いています。
あなたがあなたを信じる、その瞬間を、どうか、大切に抱きしめてあげてください。
また、つぎのお手紙でお会いしましょう。

あなたとあなたの大切な人の人生が愛で満ち溢れるものであり続けますようにとの願いを込めてDESTINYからのお手紙をお届けさせていただいています。
「このテーマについて知りたい」
「こんなサービスがあったらいいな」
「今、こんなことで悩んでいます」
あなたの声をぜひ聴かせていただけませんか?
あなたの声をぜひ聴かせていただけませんか?