なぜ本を書きたいのか?

わたしの中に絶えず当たり前にあった

「言葉にしたい欲」の輪郭をなぞって、言葉にしてみました。

わたしがミヒャルエンデやサンテックスが

だいすきな理由もここにあったみたい。

「大変!かおりが動画に反発してる!」

みたいには捉えないでいただけたら幸いです。

はじまり、はじまり。

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着こなしている後悔や、

強さで隠れる痛みを持っている者同士は

時空を超えてつながることができる

「人は見てきたモノでしか書けない」

「なぜ、本を書きたいのか?」

結論からお伝えすると、
本には「創造の干渉」が存在しないから。

動画のコンテンツは、動画を再生した途端に「答え」が飛び込んできます。

視覚的にも聴覚的にも「わかりやすさ」はあり、答えをすぐに知りたいときには

とても助かります。

実際に、料理をしてる時に「どうしたら美味しくできるかなあ?」と

動画で調べたり、裁縫の手順を知りたい時など。

視覚的にも聴覚的にも「わかりやすさ」があり

「答え」がすぐに手に入る動画コンテンツ。

日々の生活の中で助けてもらっている場面が多くあり、

動画の可能性を感じています。

ただ、正直にお話しますと、

動画の可能性を感じると同時に「窮屈さ」を感じることもあります。

これがどんなことなのか。

わたしの観察のもと、

お話を続けさせてください。

例えば「酢豚に添えているパイナップル絶対!食べますよね!」

「そうめんには絶対!さくらんぼですよね!」というように

「その人の美意識や価値観」が一定の速度で登場してくる。

相手と自分との美意識や価値観の間に「ヨハク」がない。

すぐそばに「共感」を置いておく必要があるかのような、

「窮屈さ」を時としてわたしは感じてしまうことがあります。

この「窮屈さ」は視覚的にも聴覚的にも情報が多く

「わかりやすい」故に起きる、「創造の干渉」が根本原因にあるのかもしれません。

(美意識や価値観を共感しなければならないと感じる「窮屈さ」を

「創造の干渉」と定義して、お話を更に深い領域に進ませてください。)

一方、本を読むときにはそのような「創造の干渉」が存在しません。

自分の抱えている問いと「相手の手にした答え」に対して

充分な余白を持ちながら、ページをめくることも、

途中で手放すこともできる。

一呼吸おいて戻りたいときも

「ただそこに、ある」

「創造の干渉がない」からこそ、

著者の言葉と共に歩きながらも、

疑問や考察が自然と自身の中に浮かび、時として立ち止まる。

このプロセスのなかで自身の中に息吹く

新たな知識が解き明かされていく喜び。

同時に、興奮と新たな好奇心を胸にすることこそ、

自分の抱えている問いに対する「答え」なのだと実感する。

わたし自身、相談をお受けする時に

「創造の干渉のない」空間を大切にしています。

だからこそ、ご縁をいただいた方たちが

必ず口にしてくださる言葉

「他の人には言えないけれど、

かおりさんになら言える」

「今までで一番安心できて終わった後は

今までにないくらい深く眠れた」

「点と点がつながった!

次はこの事業を展開しようと決意できた」

「創造の干渉がない」空間だと人は安心して、

どこまでも、責任をもって自由になれる。

その空間で一緒に生き続けることが出来るのは、

本を書いた著者だからこそ。

「本は叡智を繋ぐ聖地である」

あなたとあなたの大切な人の人生が愛で満ち溢れるものであり続けますようにとの願いを込めてDESTINYからのお手紙をお届けさせていただいています。

「このテーマについて知りたい」
「こんなサービスがあったらいいな」
「今、こんなことで悩んでいます」

あなたの声をぜひ聴かせていただけませんか?

https://docs.google.com/forms/d/1cmI3soV5IdmhqFvLVkQw0pNYEtJqS07syR2NuVXk0xk/edit

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